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<書評>堤 未果『沈みゆく大国 アメリカ』

2017.10.30 UPDATE

<書評> 堤 未果『沈みゆく大国 アメリカ』(2014年、集英社新書)
「アメリカの医療改革の経過と現状」 杉本貴代栄

1)はじめに
 2010年3月、オバマ大統領(当時)は、アメリカ国民に保険加入を義務づける「医療保険制度改革法(The Patient Protection and Affordable Act)」(通称、オバマケア)に署名した。リ-マンショック以降国内の貧困が拡大し、労働者の4人に1人が時給10ドル(1000円)以下で生活するアメリカで、オバマ大統領はついに今まで実現しなかったアメリカの夢に手をつけたのだと期待する人々も多かった。「もう2度と、病気になっただけで医療破産するようなことはおこらなくなる」「既往歴による保険会社の加入拒否ももう終わる」「皆保険は最初の1歩だが、間違いなく大きな1歩となる」等々、ツイッタ-やフェイスブックによりこのようなメッセ-ジは瞬く間に国内に広がった。多くの人々が期待したように、この法案には良い点も多々あるのだが、果たしてこの法案の実施によって、アメリカの医療は画期的に変化するのだろうか?本書はさまざまなアメリカの問題点に触れてはいるけれども、ここでは堤未果が『沈みゆく大国 アメリカ』(2014年、集英社新書)(及びそれ以前に出版した、『ルポ 貧困大国アメリカⅡ』(2010年同)、『ルポ 貧困大国アメリカ』(2008年同)のなかで中心的に触れている医療改革についてのみ取り上げて見ていくことにする。本書はアメリカの医療事情の現実をよく物語ってはいるけれども、それを説明する一般的な事情や経過についての説明が少ないため、本書を理解するためには、多少の説明や経過の補足が必要であると考えたからである。
 なお、書評を書き始める前に、おおいなる言い訳と本書評の限界をあえて述べておかなければなるまい。私が本書の書評を,「中部社会福祉学研究7号」(日本社会福祉学会中部部会発行、2017年4月発行予定)に掲載することを編集会議で表明したのが2016年10月半ば頃、つまり今回の大統領選挙の約3週間前であった。もちろんその時点での私の見通しは,他の多くの人々と同様に、ヒラリ-・クリントンが勝利し、進行中の医療改革がさらに進行するであろうという予想に基づくものであった。今日(未だ詳細は不明であるけれども)のようなオバマケアへの反動が吹き荒れるとは、考えてもいなかった時点での話である。ゆえに本書評は、堤未果のアメリカの医療改革の補足であり、今後の(特に書評出版後の2017年4月以降の)医療改革の行方を示唆するものではないことを断っておかなければならない。多分別の機会があれば、それは数年後に行うべき私の別の仕事になるであろう。

2)医療保険の現状
まずは話題になっているアメリカの医療保険であるが、アメリカの社会保障制度のなかに全く医療保険が入っていないわけではない。

<図1 アメリカの主な社会福祉制度>

社会保険(OASDI)

全国民対象 失業保険
医療保険(メディケア)
社会保障制度

公的扶助(SSI・AFDC/TANF)
限定した対象 医療扶助(メディケイド)
フ-ドスタンプ
                 (著者作成)

 アメリカの社会保障制度は医療保険を欠落させて成立したが、<図Ⅰ>に見るように、1960年代にメディケア(医療保険)と、メディケイド(医療扶助)の2種類の医療保険が追加され、現状では<図Ⅰ>の構成になっている。メディケアは、高齢者とある種の障害者のための全米規模の医療保険である(1966年施行)。65歳以上のアメリカ人は社会保障の年金の受給と同時にほぼ自動的にメディケアの被保険者となり、障害者も含めて一定の患者負担分だけで各種の医療サ-ビスを受けることができる。しかし、カバ-される年齢と条件が限られているため、一般的には、雇用者負担または各自の負担により、民間医療保険の被保険者となることが必要である(メディケア受給前は、もちろん民間の保険を購入することは必携である)。もう1種の,限定した人を対象とするメディケイド(医療扶助)は、1965年に成立した。低所得の人々だけを対象として、連邦政府が補助金を出して州が運営している。医療も自前で行われているアメリカでは、自前で民間の医療保険を購入する(企業が一部を負担することもある。特に高収入の被雇用者は、無料で良質の民間保険に家族共々入ることができ,入社の際の重要な条件となっている)ことは、特別なことではない。一般にアメリカでは国民の3人に1人は雇用者を通じた(あるいは自前の)医療保険に加入していて、また、6人に1人は無保険者であるという報告がある。このような無保険者(または条件が厳しい民間保険に入っているため、使用できる医療保険の枠が小さい人)が大きな病気をした場合、『ルポ貧困大国アメリカ』(2008年)に書かれているように、医療費による個人破産が生じることになり、その増大が社会問題化している。これは私の親しい友人に実際に起きた話であるが、友人の夫が緊急で心臓手術を受け2週間の入院をしたとき(さまざまな不幸な事情があり、当時彼は民間の医療保険に入っていなかった)、23万ドル(2300万円)の請求書が病院から送られてきたという事実がある。
 このような状況下では、なんとしても全国民が加入できる医療保険が必要である。何よりもこの法律ができれば、今後アメリカでは医療保険加入が全国民の義務になるのだ。保険会社が既往歴を理由に加入を拒否したり、病気を理由に一方的に解約することも今後はできなくなる。加入者に支払われる保険金総額の上限を撤廃する一方で、医療破産を防ぐために患者の自己負担額には上限がつけられた。収入が低ければ一定額の補助金が政府から支給され、従業員50人以上の企業には社員への保険提供が義務化され、違反をすれば罰金が科せられる。こうした政府発表はどれも、高額な医療費や保険料で苦しむ国民にとっていいことづくめだった。オバマケアは少しずつ、だが確実にアメリカ国内に浸透しつつあった。今後10年間で3000万人がオバマケアに登録し、国民の医療保険保持者は94%になると予想されていた。しかし施行から1年、オバマケアの内容が明らかになるにつれ、反対や批判が多発するようになる。

3)二つの保険制度:「単一支払い皆保険医療制度」と「公的保険オプション」
 日本で「国民皆保険」といえば、「保険証さえ持っていれば、日本中どこの病院でも、一定の窓口負担で医療が受けられる保険」のことであるが、現在のアメリカで進められているオバマケアとは、日本のような国民皆保険-「単一支払い皆保険医療制度」とは別のものである。日本、カナダ、イギリスなど多くの先進国で適用されている「単一支払い皆保険医療制度」とは、医療を受ける側が民間の企業を介さず政府や公的機関に直接保険料を支払い、少ない自己負担で診療を受けるシステムのことである。アメリカのようにすでに民間保険が中心となっている国では、患者と医師の間に政府ではなく、医療保険業界というビジネスが介在する。前著「貧困大国アメリカ」でも記されていたが、彼らは、病院の株主のような役割を果たし、被保険者を提供した先の病院や医師たちに経営方針どころか治療方針にも指示を出す。そして保険を提供する患者には、年齢や健康状態で保険料に格差をつけたり、過去の病歴などを理由にして、保険金の支払いを渋り、利益を上げる。そのためこの新法律は、全国民に民間医療保険への加入を義務付けながら、保険料やその適用範囲、薬価の設定などには規制をかけないなど、医産複合体の利益を損なわない内容になっている。しかし同サイトを通じてオバマ保険を買う人も少しづつ増加し、2016年には、1300万人がオバマケアに登録した。
 オバマ大統領が最初に宣言した医療改革制度とは、基本的には「単一支払い皆保険医療制度」に類するもののようであったらしい。1993年にヒラリ-・クリントンが旗振り役となって進めたものも同じような皆保険制度の導入であったし、現制度から莫大な利益を得ている医療保険業界と製薬会社の横やりでつぶされはしたものの、旧制度に賛同し、支持する識者も多い。しかし、結果的にはヒラリ-・クリントンの時と同様に、実現したのは「単一支払い皆保険医療制度」ではなかったのだ。「単一支払い皆保険医療制度」が,医師と患者の間に民間企業を介在させないのに対して、もうひとつのオプションである「公的保険オプション」とは、公的保険か民間保険かを選択できるようにするもので、あくまでも民間保険との両立が前提である。加入した保険が条件に宛てはまらなければ、オバマ大統領が各州に設置した<エクスチェンジ「保険販売所」>で新しい保険を購入しなければならない。そこでは政府の既定条件を満たす保険プランだけが売られていて、国民はそのなかから月々の保険料や適用範囲などを比較して、最も自分に合ったプランを買わざるをえない。結局は、保険会社のプランに合わせることになるのだ。
 オバマ大統領は、改革の内容を次第に変化させていく。長い間「単一支払い皆保険医療制度」を支持していた有力者たちも、公的保険と民間保険の抱き合わせ案に転向していく。当初の案の実現を待っていたのでは、いつまでたっても実現しないことに気づいたからだ。そもそもアメリカの医療を破綻させている医療保険会社や製薬会社などの医産複合体を排除するためには、政府が一括で運営責任を負う「単一支払い皆保険医療制度」だけなのであるが、「単一支払い皆保険医療制度」は議論のテ-ブルから早々に消え去り、いつの間にかオバマの医療改革は、「公的保険+民間保険」か、「既存のままの民間保険のみ」という対立に変わっていく。その経過についても大手のメディアが沈黙したため、多くの国民はそれが外されたことすら知らずに、いつのまにか、「公的保険オプション」という代替案にすりかわってしまったのだ。
 アメリカにはすでに説明したように、公的医療制度であるメディケア(高齢者用医療制度)とメディケイド(低所得者用医療制度)の二つが存在する。オバマが解消しようとしている4700万人の無保険者の大半は、貧困層の人々に加えて、「65歳未満、なおかつメディケイドの受給資格を満たすほどの貧困状態ではない層」、つまり職を持ち、ある程度収入のある中流層も含まれる。特にリ-マンショッック以降、普通に仕事を持ちながらも医療保険を持っていない中流層が次々に出現した。50人以上の社員を持つ企業へ、社員の医療保険提供が義務づけられたことに対して、多くの企業は、「(政府に)罰金を払って企業保険を廃止する」か「今いるフルタイム社員の勤務時間を減らし、大半をパートタイムに降格する」という「防衛策」を取りつつある企業も出現した。その結果、「労働時間は減り、企業保険にも加入できない」というパートタイム労働者が増加している。

4)今後の展開(?)
 今回の大統領選挙で、オバマケアが選挙結果を招いたという人もいるぐらいである。その是非はともかく、オバマケアが論点の一つとなったことは間違いないだろう。選挙直前の10月に政府が来年の保険料が25%上がるとの試算を出した(同時期にトランプ候補は、「オバマケアは崩壊している。政府が出した数字はでたらめで、保険料は60-80%は上がるだろう」と発言した(朝日新聞10月27日)。選挙戦中に、オバマケア拡充を主張する民主党のクリントン氏に対し、「撤廃」を訴えてきた共和党のトランプ氏はここぞとばかりに攻勢を強めるかもしれない。一方で2016年11月の選挙直後に、トランプ次期大統領は、オバマ政権にとって「レガシ-(遺産)」の一つであるオバマケアを見直す考えを明らかにしている「医療保険をより手頃で良質なものに修正する」(朝日新聞11月12日)。
オバマケアがはじまって7年近くたつのに、共和党は医療改革の概要さえも示していない。なぜなのか? 実のところ不思議でも何でもない。オバマケアに反対する人々は多いが、持病があっても保険に入れるようにするといった改革の中身には、大多数の人が賛同している。それを実施するとすれば、政府の医療政策を大幅に拡充するか(共和党の優先事項とはとても思えないが)、民主党が通した法律によく似たものを作るしかないのだ。共和党にとって分が悪いことには、批判を受けながらもオバマケアは現在そこそこ順調に施行されている。1300万人の人が政府の運営するサイトで保険を買ったからである。無保険の米国人の数は市場最低になった。もし共和党が規制緩和を進め、政府支出を大幅に削減するためにオバマケアを変更したり破棄したりすれば、かつてのように保険会社が自由に加入者を選ぶようになるだろう。その結果、200万人もの米国人が保険を失うことになるだろうが、その人々の大半とは、トランプ氏に投票した人たちなのだ。
 本日の新聞には、共和党の「オバマケア撤廃案」が掲載されている。共和党の予算委員会はオバマケア撤廃のための決議案を提案したという。しかしその「代案」ははっきりしておらず、実際に撤廃されるのか、どのように修正されるのかは現状では全く不明である(朝日新聞1月6日号)。私たちはオバマケアが与える思いの外に大きい影響を、見守ることしかできないのだろうか。(2017年1月6日)。

<参考文献>
書評 斉藤環「賛否わかれるオバマケア」(朝日新聞2015年1月18日号)
杉本貴代栄著『アメリカ社会福祉の女性史』(2003年勁草書房)

Obamacare Summary

ObamaCare Facts: Facts on the Affordable Care Act


(NPO法人「ウイメンズ・ボイス」理事長)

<中部社会福祉学研究第8号 2017年3月発行に掲載>