「ブル-ジャスミン」が描く、女の幸せと不幸せ | 特定非営利活動法人ウイメンズ・ボイス

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「ブル-ジャスミン」が描く、女の幸せと不幸せ

2015.04.11 UPDATE

「Gender Forum 第1号」より

『ブルージャスミン』(Blue Jasmine)は、ウディ・アレン監督・脚本による2013年のアメリカ映画である。「名前を変えたの、ジャスミンに。ジャネットなんて平凡だもの・・・」ニュ-ヨ-クのマンハッタンで裕福な夫のもとで豪奢な生活を楽しんでいたジャスミンの生活が突然破綻し、サンフランシスコでス-パ-の店員として暮らすシングルマザ-の妹のアパ-トへ身を寄せることになる。過去の生活が忘れられず、現実の生活を直視することを避け続けるジャスミンに、果たして再び豪奢な生活に戻るチャンスが訪れるのだろうか。ブル-、つまり、みえ、虚栄、嘘に囲まれた憂鬱なジャスミンの物語。虚言と現実逃避を繰り返し、ひたすら落ちていくジャスミンの生活を映画は描いていく。ジャスミンを演じたケイト・ブランシェットは、「エリザベス」(1998年)、「バベル」(2006年)、「インディ-ジョ-ンズ:クリスタルスカルの王国」(2008年)、「ミッドナイト・イン・パリ」(2011年)で好演した女優であるが、本作の演技でアカデミ-賞とゴ-ルデン・グロ-ブ賞の主演女優賞を勝ち取った。

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<監督と作品について>

監督のウッディ・アレンは、1935年のニューヨーク州ブルックリンの生まれ。本作公開時は78歳、高齢にもかかわらず、毎年といって良いほど新作を公開し続けている。アメリカでは近年、高齢の映画監督の活躍が目に付くが(例えば、1930年生まれのクリント・イ-ストウッドも次々と話題作を発表し、最新作は2015年に公開される『アメリカン・スナイパ-』である)、アレンもその一人である。

ウッディ・アレンは、クライヴ・ドナー監督作品『何かいいことないか子猫チャン』(65)で映画俳優として、翌年『What’s Up, Tiger Lily?』(66/未)で監督としてデビューした。その後、『スリーパー』(73)などのシュールでスラップスティックな喜劇を次々と世に送り出し、1977年には都会的に洗練されたラブ・ストーリー『アニー・ホール』(77)を発表し、同作品でアカデミー賞主要4部門を受賞してアメリカを代表する映画作家のひとりとして認められた。1980年代には私生活のパートナー、ミア・ファローと組み、珠玉のラブ・ファンタジー『カイロの紫のバラ』(85)、アカデミー賞8部門の候補となった『ハンナとその姉妹』(86)などを発表。円熟期ともいうべき1990年代に入ると『夫たち、妻たち』(92)、『マンハッタン殺人ミステリー』(93)、『ブロードウェイと銃弾』(94)、『誘惑のアフロディーテ』(95)、『ギター弾きの恋』(99)などの多彩な快作を連作した。2000年代に入っても、ほぼ年に1本の創作ペースを保ち、『ミッドナイト・イン・パリ』(11)で25年ぶりの作品賞を含むアカデミー賞4部門にノミネートされ、脚本賞を受賞。日本を含む世界各国で大ヒットを記録し、新たな絶頂期の到来を印象付けた。本作の次作も既に公開を控えていて、新作の『Magic in the Moonlight』の舞台は1920年代の南フランス。エマ・ストーンとコリン・ファースを主演に迎えた、皮肉屋の手品師と女性占い師の恋の駆け引きを描いたロマンティック・コメディであるという。

「女性映画を撮らせたらアレンは随一(タイム誌)」との評があるが、今までのアレンの「女性映画」とは、『ミッドナイト・イン・パリ』に代表されるようなロマンティック・コメディ路線であった。しかし本作はそれとは異なって、かなりシリアスな作風である。虚栄心とプライドで塗り固められたヒロインの人生が、現実的な真実味を帯びて描かれている。これこそが、アレンの新しい「女性映画」となるのだろうか。

 

<映画のスト-リ->

サンフランシスコの空港に美しくエレガントな女性が降り立った。彼女は、かつてニューヨーク・セレブリティ界の花と謳われたジャスミン(ケイト・ブランシェット)。しかし、今や裕福でハンサムな実業家のハル(アレック・ボールドウィン)との結婚生活も資産もすべて失い、ウオッカと精神安定剤と自尊心だけがその身を支えている。

ニュ-ヨ-クには身の置き所がなくなったため、唯一の身内である庶民的なシングルマザーである妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)を頼ってサンフランシスコまでやってきたのだ。ジンジャ-はかつて、宝くじに当たったお金をジャスミンの夫ハルの資産運用の儲け話に乗せられて失ったといういきさつがあるにもかかわらず、ジャスミンを暖かく受け入れる。しかしジンジャ-の質素なアパートに身を寄せたジャスミンは、過去の栄華を忘れられず、不慣れな仕事と勉強に疲れ果て、精神のバランスをしだいに崩していく。既に無一文となっているのにもかかわらず、虚栄心とプライドだけは消え去らないヒロイン。自分の現実を直視しないだけでなく、他人までをこき下ろし、貧乏生活に悪態をつくありさま。現実のジャスミンの生活には釣り合わない、シャネルのス-ツやヴィトンのトランク、ジャスミンはとりあえずの仕事を得た歯科医の受付の仕事に、エルメスのバ-キンのバックを持って出かけていく。このようなサンフランシスコの現実の生活と、ニュ-ヨ-クでの過去の豪奢な生活を映画は交互に描いていく。生粋のニュヨ-カ-であるアレンはニュ-ヨ-クを映画に登場させることが多いのだが、ここでもニュ-ヨ-クの生活が生き生きと描かれる。

やがて何もかもに行き詰まったジャスミンは、あるパ-ティ-で理想的なエリート外交官の独身男性ドワイト(ピーター・サースガード)とめぐり会う。彼こそが自分を再び上流階級にすくい上げてくれる存在だと思い込んだジャスミンは、最後のチャンスにすべてを賭ける。しかし虚言癖はエスカレ-トし、自分はインテリア・デザイナ-で、別れた夫は外科医だった、と嘘をつく。それらがウソだとばれたことから、ジャスミンの最後の賭はもろくもガラガラと崩れていく・・・・・名曲「ブルームーン」のメロディに乗せて描かれる、あまりにも残酷で切ない、ジャスミンの運命とは───。

 

<「欲望という名の電車」>

本映画の批評には、プロットやキャラクターが類似していること、また出演者も共通する点があることから、テネシー・ウィリアムズの舞台『欲望という名の電車』(ニュ-ヨ-クで1947年に初演、後に映画化された)がたびたび引用されている(ボールドウィンは1992年の舞台と1995年のテレビ映画(英語版)でスタンリー・コワルスキー(英語版)役、ブランシェットは 2008年のオーストラリアでの舞台でブランチ・デュボア(英語版)役を務めた)。

スト-リ-の大筋は以下である。春。アメリカはニューオーリンズ市。<極楽>という名の街路に面したある街区に、没落した大農園の娘ブランチが妹ステラを頼ってやってきた。ブランチはステラの夫・スタンリーとの間で摩擦を起こすが、スタンリーの親友ミッチと婚約する。しかし、ブランチはスタンリーによって自らの過去の罪を暴かれ、ミッチとの婚約は解消する。しかもブランチはステラの出産中にスタンリーによって暴行され、ついに精神は崩壊してしまう。最後にステラは無事出産し、ブランチは精神病院へと入れられる。

確かに本作を見た印象として、スト-リ-の類似性から「欲望という名の電車」を連想してしまいがちである。過去の上流階級の栄光にしがみつく姉と、労働者階級の一員として生きる妹とが、ポジとネガのようになっているところは際立った類似性があり、現代版「欲望という名の電車」といえるほどである。が、果たしてウッディ・アレンがそれを意識して制作したかどうかは、どこにも言及されていないので不明である。

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ニューヨークでの裕福な実業家との結婚生活が破綻し、富豪の夫と別れ、サンフランシスコの妹の家に居候にきたジャスミン。再び玉の輿に乗り、セレブ生活に戻れると信じて疑わないジャスミンがつく「嘘」は、次第にエスカレートしていく……。映画の最後で、主人公ジャスミンの数々のおかしな言動の理由、彼女の正体、なぜそんなことになったのかがすべて明らかにされる。

富豪の夫の裏切り(なんと、10代のオ-ペアと結婚するという)に頭に来たジャスミンは、夫のインチキビジネスをFBIに電話でたれ込む。もともと夫はポンジ-スキ-ム(詐欺の一種で、出資してもらった資金を運用すると言っておきながら、実際には資金運用を行わず、後から参加させる別の出資者から新たに集めたお金を“配当金”などと偽って渡すという、違法なネズミ講の一種)の講元で、有能なビジネスマンなんかではなかったのだ。ニュ-ヨ-クでのセレブな生活それ自体が、虚栄と嘘で塗り固められた生活だったのだ。刑務所に収監された夫はそこで自殺した。そのウソの生活を自らの手で破壊したからといって、サンフランシスコへやってきたからといって、真実の新天地がそこにあるはずはない。人生はずっとひとつながりの連続線であり、結果は努力と経験の積み重ねであり、偶然や奇跡の結果では決してないのだ。いろいろもがいてみたけれど、結局どこにも自分の居場所はないことにジャスミンは気づいて妹の家を出て茫然とシスコの街をさまよう。この先どうするのか、しかしベンチに座ったジャスミンは何を話すでもなくただ宙を眺めるだけ・・・。このような映画の結末は、女性の人生の幸・不幸は、結局は自分の手のなかにしかないことを、ジャスミンの姿を借りてアレンが告げているのではないだろうか。