映画評『オレンジと太陽』 | 特定非営利活動法人ウイメンズ・ボイス

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映画評『オレンジと太陽』

2016.10.17 UPDATE

映画『オレンジと太陽』が描く、イギリスの児童移民政策を明らかにするソ-シャルワ-カ-の戦い

<監督・原作・経過>
 『オレンジと太陽』は、2011年にイギリスで制作され、2012年に日本で公開された映画です。イギリスの児童養護施設の子どもたちが、オーストラリアなどの英連邦諸国(カナダ、ニュージーランド、ジンバブエも移送先になったという記録もあります)へ送られたという児童移民政策を主題とした映画です。ほとんど一般には知られていないこの出来事を広く知らしめることになった映画であり、告発の映画ともいえます。
 映画の元となった原作は、児童移民の実態を知り、実際に社会に告発し続けたソ-シャルワ-カ-、マーガレット・ハンフリーズの著書『からのゆりかご――大英帝国の迷い子たち』(原著は1994年刊、邦訳は近代文藝社より2012年2月刊)。演じるのは、最新作『戦火の馬』も話題となった演技派女優エミリー・ワトソン。今回初のメガホンを取ったのは、イギリスを代表する巨匠ケン・ローチの息子、ジム・ローチ。これまでテレビの演出家としてドラマやドキュメンタリー作品を多数制作し、本作が初監督作品となったジム・ローチは、インタビュ-のなかで本作を監督するに至った経過を以下のように語っています。
 「10年ほど前、地下鉄に乗って新聞を読んでいた時に、たまたま児童移民に関する記事が載っていたんです。私は、自分がまったく知らなかった事実に衝撃を受け、すぐさまマーガレットの書いた本を買って読みました。そして、マーガレットと連絡をとり、彼女の住むノッティンガムという街に会いに行ったのです。はじめは彼女に対し、少し近寄りがたい印象を抱きました。彼女は、エンターテインメント業界に対して不信感を抱いており、映画化に乗り気でなかったのは確かです。マーガレットには脚本をじっくり読んでもらって、少しずつ信頼関係を築いていきました。マーガレットをはじめ、児童移民の“当事者”たちとたくさん会い、彼らと多くの時間を過ごしました。その結果、マーガレットの物語を撮らせてもらえることになったのです。マーガレットは「児童移民や私自身の経験をとても誠実に描いてくれた」と言ってくれました。この作品を“当事者”たちに観てもらうため、オーストラリアで上映会を開いたのですが、とても良い反応が得られました。彼らも、ポジティブな気持ちでこの作品を観てくれたように思います。上映前は、彼らがどんな反応を示すだろうかと心配で緊張もしましたが、彼らの様子を見て、私は祝福されたような気持ちになりました。」
 本映画が告発する児童移民政策とは、19世紀からはじまって1970年まで続いたイギリスの政策で、その間におよそ13万人もの子どもたちが家族から、そして祖国から切り離され、突如見ず知らずの国に放り出されたのです。強制移送先では、確かな保護などなく、多くの子どもたちは安い労働力してこき使われ、身体的、心理的、性的虐待を受けるなど、過酷な環境に置かれました。このようなことが組織的に、しかも教会団体や児童支援団体が主軸となり、英国政府とオーストラリア政府の合意のもとで実施されていたのです。これらの事実は長く隠されてきましたが、2009年にようやくオーストラリア政府が、2010年にはイギリス政府が正式にそれを認めて謝罪しました。
 これらの謝罪が行われたのは本作の撮影中のことであり、それもあって本作は、特にイギリスやオ-ストラリアでは公開前から大きな注目を集めました。公開されると、特に現在も児童移民が多く暮らすオ-ストラリアでは、ハリウッドのメジャ-作品に劣らない大ヒットとなりました。

<ストーリー>
 時は1986年、ところはイギリスのノッティンガム市。市のソーシャルワーカーであるマーガレット・ハンフリーズは、二人の子どもを持つ40代の母親であり、夫のマ-ヴィンも同じソ-シャルワ-カ-として働いています。社会保障に携わる部局のなかでも、子どもと家庭に関わる仕事を担当していたマ-ガレットは、養子に出された人の問題に関心を持つようになります。1975年の法改定によって、養子に出された子どもが成人に達した時点で自分の出生証明書を見る権利が開かれたため、それまで失われていたアイデンティティが求められるようになり、それは新たなジレンマももたらしたからです。多くのソ-シャルワ-カ-は、必要な訓練も受けず、この課題に対応していかなければならなくなりました。1984年にマ-ガレットは、この問題に対応するための小さなプロジェクトを設立します。人々が集まって、それぞれ違う視点から養子の経験を話し合うのは有益なことだと考えたからです。マ-ガレットはこの活動を「トライアングル」-養子にかかわった3者(生みの親、育ての親、子ども時代に養子に出された今の成人)に開かれたサ-ビスを意味して-と名付けました。果たして連絡してくる人がいるかどうかもわからないまま、地方紙に小さな広告を出し、片手に乗るほどの手紙が来て、職務上のプロジェクトではないために勤務時間外に、他の団体と共同で借りた建物の屋根裏部屋を使って2週間に1度の会合を持つことを始めたのです。                       この会合のなかでマ-ガレットは、オ-ストラリアから来た一人の女性、シャーロットからある訴えを聞かされます。「自分はある児童養護施設にいた4歳のころ船に乗せられ、オーストラリアに送られた。船には、親も保護者もなくまた養子縁組でもなく単に子どもがたくさん乗っていた。私は自分が誰なのか知りたい」と言うのです。マーガレットは初めは信じられませんでした。シャ-ロットは養女として受け入れられたか、あるいは誰か保護者が付いて、この国のどこかの港から出て行ったに違いない。しかしその後、他の女性からも、同じく船に乗せられたという弟、ジャックからの手紙「たぶん、僕はあなたの弟です」を見せられ、半信半疑ながら調査を始めます。すると信じられないような事実が次々に浮かび上がってきました。死んだはずのシャーロットの母は生存しており、驚くことに母は娘がイギリスの養父母にもらわれたと信じていました。マーガレットは、シャ-ロットと実母の再会をとりもちます。英国とオーストラリアを結ぶ2つの線が一挙に結びつき、「強制児童移民」という仮説が生まれます。マーガレットはその仮説を確かめるために、オーストラリア大使館や公文書館に足を運びます。観客は、マーガレットと共に少しずつ真実を知っていきます・・・・。
 ついにマ-ガレットは、オーストラリアに赴きます。そして19世紀から、政府や慈善団体が主となって、イギリスの子どもたちを植民地に移送してきた事実があること、オーストラリアには、ジャックと同じように家族を探したいと願っている人たちがたくさんいることを突き止めます。マーガレットは市の上役である社会福祉委員の協力を得て、2年という調査期間と資金、および夫マーヴの協力を得て、この問題に専念する体制を整えて、精力的な活動を始めます。マーガレットのイギリス、オーストラリアの行き来が始まります。マーガレットは、移送後さまざまな辛い人生を送ってきた人々と出会い、その人々の信頼と協力を得てさらに活動を広げます。レンもその一人。オ-ストラリアのクリスチャン・ブラザ-ズ児童福祉施設のひとつである「ビンドウ-ン」に移送された後、事業を起こして成功したレンは、初めはマーガレットに冷ややかでしたが、レンの母親探しを通じて次第に心を開き、マ-ガレットのオ-ストラリアでの活動を全面的に支え、自分のかつての移送先であった「ビンドウ-ン」へ彼女を連れて行きます。
 一方、マ-ガレットの活動は児童移民に深く関わっていた慈善団体や教会の立場を悪くするものであったことから、彼女は言われなき中傷や脅迫を受けることとなります。脅迫電話が頻繁にかかり、彼女の活動を妨害するさまざまな嫌がらせが行われます。オ-ストラリアの宿泊所の窓が深夜に叩かれ、何者かに襲われそうにもなりました。また、被害者の悲惨な体験を聞き続け、彼らの気持ちに寄り添い過ぎたために、心的外傷後ストレス障害に陥ってしまいます。それでもマーガレットは夫に支えられ、そして彼女に救われた被害者たちの励ましを受け、今は成長した移送児童の家族探しに奔走するのです。家に居てほしいという家族の願いを知りながらも、再びオーストラリアに戻っていくのです。映画の最後に、マ-ガレットの家族がオ-ストラリアでクリスマスを過ごすシ-ンが出てきます。活動資金を募るための福引きが行われ、マ-ガレットの仕事仲間が12歳の息子に、「(福引きのために)何を出してくれるのかな?」と聞くと、「僕をもうママをあげているよ」と答えるのです。

<イギリスのソ-シャルワ-カ-とは>
上記したように、家族の願いと使命感のジレンマに悩みながらもソ-シャルワ-カ-としての仕事に邁進するマ-ガレットですが、イギリスにおけるソ-シャルワ-カ-の資格とはどうなっているのでしょうか。イギリスにおける近年の資格の整備は、1968年のシ-ボ-ム報告(地方自治体の対人サ-ビス部門の組織、つまりマンパワ-の養成と確保の改革を目指したもの)により進められました。同報告を受けて1970年に地方当局社会サ-ビス法が成立し、各地域に社会サ-ビス部が設置され、これに伴って資格が明記されました。1971年に中央ソ-シャルワ-ク研修協議会(CCETSW)が設立され、以降、同協議会が資格制度をリ-ドします。1972年にソ-シャルワ-ク認定資格(CQSW)が、1975年に施設職員のための社会サ-ビス認定資格(CSS)が設立されましたが、いずれも」同協会が認定したコ-スを終了することにより与えられます。その後、改革案として、1987年に両者を統合するディプロマ・イン・ソ-シャルワ-ク(Qualifying Diploma in Social Work:QDSW)が提起されましたが、現在でも完全に統一されているわけではないようです。さまざまな資格が並立しているのが現状です。日本では、1987年の社会福祉士・介護福祉士法(207年に改正)により、社会福祉士・介護福祉士は国家試験によって統一的に国家基準によって資格取得されるようになりましたが、そのような国家試験があるわけではありません。これはイギリスだけではなく、アメリカも同様であり、資格を管轄するのは国ではなく、業界団体が自ら管轄するという点では共通です。アメリカの場合は、1952年に設立された全米社会福祉教育協議会(CSWE)が、養成課程の認定、カリキュラム基準設定に全面的な権限を持っています。ソ-シャルワ-カ-は、認可された社会福祉大学院を修了後、所定の現場実践を行った後、資格(MSW)が取得されます。このようにソ-シャルワ-カ-になるには修士号取得が前提条件であったものが、1974年にCSWEが、学卒者も専門職(BSW))と認定しました。このため現在ではMSW,BSWともに専門職として認められていますが、しかし現在でも、MSWがッソ-シャルワ-カ-の主流であることは変わりません。
 原著によるとマ-ガレットは、将来の職業についての明確な計画を持つまでには、それなりの時間が必要だったこと、20代を過ごす間に気持ちを安定し、社会福祉の仕事につ就くこと心を決めることができた、と書いています。それにはいくつかの選択の道があり、例えばノッティンガム市役所児童局で実習生として働いた後、大学で職業訓練を受けることもできた(中略)、20代も終わりに近い頃には資格が取れた、と書いています。1944年生まれのマ-ガレットの学生時代には、上記した資格制度は整っていなかったであろうから、20代の終わり頃になって創設されたCQSWを取得したと推察できます。

<児童移民政策の目的とその後>
 児童移民とは、児童養護施設の子どもたちをイギリス連邦の旧植民地に移住させた長期間にわたる事業のことで、送り手であるイギリスと受け入れ国によって計画的に行われた社会政策であったことが今日では明らかにされています。19世紀から始まった児童移民は、戦後の時期には、カナダ、ニュージーランド、ジンバブエ(旧ローデシア)とオーストラリアへと送られ、1970年まで続きました。児童移民の数は13万人を上回ると推計されています。年齢は、3歳~14歳が対象で、特に7~10歳が主な年齢層だったようです。作中描かれているように、オーストラリアでは収容施設での重労働、暴力、性的虐待が行われたのですが、教会により長く隠蔽されてきました。2009年11月にオーストラリアのケヴィン・ラッド首相が、2010年2月にイギリスのゴードン・ブラウン首相が事実を認め、正式な謝罪を行ったことで世界的な大ニュースとなりました。
 なぜ、このような大規模な児童移民が、長期間にわたって行われたのでしょうか。映画では、このような児童移民が行われた理由は明示されていません。唯一「オーストラリア政府も白人の移民を歓迎した」という一言があります。人減らしを狙う英国と、旧植民地の新興国で労働者不足を補いたい、特に白人が欲しいオーストラリア政府との双方の思惑が一致したことを示唆しています。
 児童移民の動機としては、受け入れ国によって様々な具体的な理由があったのですが、そのどれもが、子どもたち自身を最優先事項とはしていなかったことでは共通しています。カナダの農場では便利な安い労働力として、オーストラリアでは戦後の人口を押し上げる手段として、旧ローデシアでは白人の経営エリートを保護する方法として見なされました。また身体障害のある子どもや黒人の子どもたちなどは国が受け入れず、特定のグループは除外されました。この計画の動機の1つには、大英帝国の民族的統一の維持という意味合いがあったからでしょう。子供たちは、「オーストラリアには太陽とオレンジが待っていると言われた」というくだりが映画にありますが(題名(原題も同じ)はそこから来ています)、実際に待っていたのは、太陽とオレンジではなかったのです。
 一般的によく知られているように、オーストラリアはそもそもイギリスの植民地となり、その後、流刑者たちを移民させたところから歴史が始まります。ヨーロッパからすれば、非常に遠い、アジア圏内にあるこの国は未知数ではあるものの、まわりのアジア環境を考慮するがゆえ、植民地としてヨーロッパ文化を浸透させるべく、1900年代から「白豪主義」としての様々な政策がとられるようになりました。基本、先住民アボリジニを下に見て、自分たちの白人文化によって国を統制するために、アボリジニとの混血児を強制的に家族から離し、白人的教育を強制的にうけさせる政策をとりました。別政策として、今回の映画になった児童移民政策です。英国政府が主導し、教会や慈善団体などが中心となって、子どもを組織的にオーストラリアへ移民させたのです。時は、上記のアボリジニに対する政策とほぼ重なっています。つまり、どちらも「白豪主義」を推進するべく、将来を担う子どもたちを増加させ、オーストラリアにおける白人化を進めたのです。特に、オーストラリアはヨーロッパと異なり島国であるという点、そして何よりもアジア圏にあり、ヨーロッパからみれば、白人化するには外から流入することで増やす、ということしか考えにくかったのでしょう。
 「白豪主義」は多くの批判を受けて1973年を機に終結します。この後は、世界大戦後のアジア難民大量受け入れへ急速にシフトし、今までの名誉挽回というべきほど、多文化主義へ政策変化していきます。この児童移民の事実がずっと封印されてきたことこそ、特にアボリジニの同化政策以上に封印されてきたことは、オ-ストラリアとイギリス両国にとって、知られたくなかった事実であったことを痛感します。
 上記の記述はあまり日本には関わりがないようですが、原作である「からのゆりかご」には、次の記述があります。「日本のシンガポール占領とダーウィン爆撃がオーストラリアにかくも広大な大陸を守るだけの方策も人口もないという恐怖感を募らせてしまったのだ。入植がこの問題に対する解答だった。」1942年2月、イギリス陸軍は日本陸軍に敗北し、シンガポールは陥落。多くのオーストラリア兵も捕虜となりました。同年2月から43年11月まで、日本海軍および日本陸軍はオーストラリア本土も空襲。この時の記憶から45年の戦争終結後もオーストラリアではアジアからの防護が叫ばれ、そのために白人の入植を政策とし、イギリスからの児童移民が促進されたという見解を紹介しています。日本も歴史的に見れば、児童移民政策に全く無関係とは言えないようです。
 隠蔽されていた事実は明らかにされたけれども、問題が全面的に解決したわけではありません。マ-ガレットの戦いは現在も続いています。マーガレットは原作の印税をもとに、1987年に「児童移民トラスト」を設立しました。児童移民トラストは、オーストラリアとイギリス両国に登録されたチャリティ-団体で、イギリスのノッティンガム、オーストラリアのパースとメルボルンにオフィスを置き、元移民と彼らの家族に情報を提供し、家族の再会を含む社会福祉サービスを提供しています。現在、マーガレット・ハンフリーズは児童移民トラストのディレクターを、夫のマーヴィン・ハンフリーズはプロジェクト査定者を務めています。評者も今回、「児童移民トラスト」のサイトを詳しく見てみましたが、その歴史と事実は詳細にわたり記載されていて、その壮絶な長い歴史を改めて認識しました。

<参考文献>
マーガレット ハンフリーズ著、都留信夫・都留敬子訳
    『からのゆりかご―大英帝国の迷い子たち』近代文藝社、2012年
「オレンジと太陽」公式ホ-ムペ-ジ http://oranges-movie.com/
児童移民トラストホ-ムペ-ジwww.childmigrantstrust.com